26th SESSION

男性の好きなスポーツ

2004/8/19〜9/12 下北沢本多劇場
9/16〜18 札幌道新ホール

作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ

出演:みのすけ、松永玲子、新谷真弓、村岡希美、廣川三憲、藤田秀世、長田奈麻、安澤千草、大山鎬則、喜安浩平、吉増裕士、杉山薫、植木夏十、眼鏡太郎、佐藤竜之慎、皆戸麻衣、廻飛雄、柚木幹斗、長谷川朝晴、小沢真珠、すほうれいこ、京晋佑、ロマンチカ

<主要な役>ウツキ=みのすけ、キョウコ=松永玲子、ソウタ=京晋佑、コウヘイ=長谷川朝晴、マリィ=小沢真珠、フミ=すほうれいこ

<メモ>・ナンセンスのテイストとシリアスのテイストが混じり合い、さらに現代的な性の話題を前面に押し出した異色作品。ケラは「セックス・コメディ」「艶笑劇」と呼んでいるが、過去のナイロン作品に例を見ないタイプであり、現在のところ分類不可能。「第2期ナイロン」を象徴する舞台と言えるかも知れない。
・ナイロン通販でDVD発売予定(05年3月)。
・犬山イヌコ、峯村リエ、三宅弘城、大倉孝二は欠番。峯村リエ以外の3人は27th SESSION「消失」に出演。
・セットは下手に張り出し部分があり(座席の上に舞台を設置)、下手から上手に隠し階段が伸びている。上手上部にサブステージ、センターから下手にかけては大規模な回り舞台。上手下部も回り舞台を設置しており、舞台構造としては「東京のSF」と対称に作られている感。基本的に抽象セットだが、回り舞台の壁面には女性の全裸のバックショットが大きく描かれている。
・この公演も仮タイトルがそのまま本タイトルになった。
・ロマンチカはダンスで出演。04年に横町慶子がケラに出した年賀状に「一緒に何かやりたい」と書いたことがそのまま実現する形に。公演の名称通り、エロティックなダンスを主に披露。一部日舞が取り入れられた箇所もある(マリィの日舞に何人かが三味線を弾いている設定)。
・「『劇』小劇場」は本多劇場系列と並んで下北沢の劇場街を作る、実在の劇場。
・小沢真珠はこの公演直前に出演していたドラマ「牡丹と薔薇」が大ヒット。小沢真珠のケラ作品出演は、オリガト・プラスティコvol.1「カフカズ・ディック」以来。長谷川朝晴は元ジョビジョバ。
・一幕ラストのキョウコや二幕中盤のクマガイ、シズホなど、ケラ作品には珍しく長ゼリの箇所が多かった。一般的には「アブノーマル」とされている性の深淵さについて語るシーンだが、かなり強い説得力を持って立ち現れている。
・廻飛雄の役は「ハルディン・ホテル」とほぼ同じキャラクター設定になっている。このまま定着させるつもりがあると予想される。
・これもケラ作品には珍しいことだが、登場人物すべてに意識を分散させるのではなく、一般的な感情移入が可能な手法で書かれた場所が多い。特にそれを感じさせるのがウツキとフミ、クマガイとマリィ、ソウタとキョウコの関係で、非常に深い筆跡で書かれている。
・遅筆であるために人物相関にあまり必然性が生じないのがケラ作品の醍醐味でもあるが、この作品に関してはプロットから入ったと思わせるような、念押しの色濃い相関図となっている。ラストシーンに近づくに従って、1回観ただけでは分析不可能なほどに綿密な関係になっている(病院のシーンが象徴的)。
・ウツキが最終的には脳腫瘍で正常な意識を保てなくなり、EDであったのが激しく勃起するシーンで物語は幕を閉じるが(回り舞台後部では院内の結婚式が行われている)、出演陣の笑いと涙が演劇的な狂気を出現させる。ストーリーの骨格がかなりヘヴィーであるため、きっちりとした収斂が逆に恐怖を呼ぶ。

<コピー>戦争反対。世界経済はダイジョウブか。横行する無差別殺人。市民達は立ち上がり、声高に叫ぶ。叫んだあと、恋人と、妻と、夫と、ゆきずりの男と、通りすがりの女と、ベッドの中でアレをする。裸になって、下着姿で、服を着たまま。アレだって大切だ。世界平和にかまけてアレをないがしろにしてはいまいか。ナイロン100℃がセックスレスの時代にあえて真のラブを問う、最新型セックス・コメディー。

<ちらしより>「セックスレス時代の艶笑劇」
今の若い男のコは、昔の男のコほどセックスをしたがらないらしい。また、どうやら男達に不能(ED)が増えているらしい。「らしい」というのは、たかだか20年前から25年前、私がティーンエイジャーだった時分には、まだまだ男は本当に性に飢えていて、中高生の頃の自分や友人のことを考えてみても四六時中やりたがっていたし、男たちが寄り集まると、女の話というか、猥談ばかりしていたし、友人の誰かが幸運にも「やらせてくれる」女を見つけてセックスをしたということがあると、みんなが彼を取り囲んで「どうだった?どうだった?」「それで?それで?」と話を聞きたがり、とくに女の「アソコ」がどうなっているかを根掘り葉掘り尋ねたものだし、そういう哀れを催すようなことしか思い浮かばないので、今の若い男のコたちがあまりセックスに興味がないようだという話を聞いても、にわかには信じられないのである。戦中戦後の飢えた欠食児が、今の飽食の時代の拒食児の話を聞かされているような感じなのだ、きっと。
しかし、もう10年近く前に書かれた家田荘子「セックスレスな男たち」(1996)や、奈良林祥「セックスレス・カップル」(1997)などの本を読む限りでは、そうした噂は確かな事実なようなのであり、「SPA!」(1998年7月8日号)でも「『単なる排泄行為』『義務から解放されたい』…若くして"枯れて"しまった独身男性たちの告白『若い男が"セックス嫌い"じゃヘンですか?』」という特集が組まれている。「ヘンですか?」って言われてもなぁ。ヘンだとは言わないが、もったいないとは思う。せっかく若いのに。
その昔、「艶笑劇」とでも呼ぶべき映画が流行った。「ピンク・コメディ」「エロチック・コメディ」と謳われることも多かったこれらの映画は、とくにイタリアやフランスあたりで、50年代から60年代にかけて続々作られた。ということは、そこそこヒットしたのだろう。毒にも薬にもならない作品群である。イロっぽいお姉ちゃんが出てきて、主人公の男のコやオヤジたちとセックスをめぐるあれやこれやをくりひろげる、それだけのお話。
今回のナイロン100℃では、私なりの"艶笑劇"をお贈りしようと思っている。ただし、興奮したいのなら本作よりもAVやレディース・コミックをおススメする。ちょっとモヤモヤッとはするかもしれないが、やりすぎないのが"艶笑劇"のいいところだから。
21世紀の艶笑劇を通じて、セックスレスの時代だからこその"真のラブ"を描けたりすれば儲けもの、描けなくてもそれはそれでちょっとイイんじゃない?
ケラリーノ・サンドロヴィッチ

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