シアターコクーンオンレパートリー

労働者M

2006/2/5〜28 Bunkamuraシアターコクーン

作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ

出演:堤真一、小泉今日子、松尾スズキ、秋山菜津子、犬山イヌコ、田中哲司、明星真由美、貫地谷しほり、池田鉄洋、今奈良孝行、篠塚祥司、山崎一

<主要な役>牧田/ゼリグ=堤真一、ミミ/リュカ=小泉今日子、黛/ランプ/父=松尾スズキ、モリィ/ユードラ/母/教師4=秋山菜津子、森/ポタージュ/教師1=山崎一

<メモ>・04年の「カメレオンズ・リップ」以来のケラ作品のシアターコクーンへの登場。出演陣も「カメレオンズ・リップ」よりもバージョンアップしているほど「NODA・MAPか?」と見まごう豪華さ。
・06年の5作品上演(偶数月には必ずケラの演出する芝居がある)の第1弾。その中で唯一、ケラが書く新作というのが謳い文句。
・WOWOWで放映予定。前回のようにDVD化の見込みあり。
・上演時間は3時間25分と、惜しくも「ナイス・エイジ」の最高記録に届かない時間。休憩は15分。
・サイドの固定された舞台(2階部分・3階部分)と、センター奧の上の通路が固定されたセット。久しぶりに回り舞台をフルに利用した(「男性の好きなスポーツ」は、回り舞台があり過ぎるという点で、回り舞台の意味が逆に失せていた)。それぞれ、会社の中、収容所の事務所、医務室(仮眠室)、事務所のロビーといったのが主なセットの設定。ただし、演じられている世界は複雑に交錯しており、セットの通りには芝居は進まない。
・「革命喜劇(レジスタンス・コメディ)」と名付けられた、ケラ作品としては珍しく政治的な要素の強い作品となった。ただ、堤真一が終始コミカルに動くため(「カメレオンズ・リップ」と非常に対照的)、具体的にどこかの国を想像させる要素は非常に少ない。
・テーマソングは空手バカボン。このオープニング映像は、ナイロンでよく目にする感じのものだが、この辺りから「久々に騒がしいかも」と、観客への期待を煽る。
・コメディとして完結したステージとなったが、テーマは、上演前にスライドで提示された「欠損」。テーマを最初から言い切ったり、2つの世界が並立して動くことを予め言ったりすることも、非常に稀有な例。
・映像はスライドを大々的に利用するが、ステージ手前に出てくる映像以外に、セットのバックに流れる映像が非常に多く、しかも完成度が異常に高い。演じていた人間が消えるところをスライドでそのまま巻き戻しにする辺りも、映像の使い方が技巧的であることを感じさせる。「革命」を感じさせる映像もあるが、主にそれは外の声として登場する。「ヤング・マーブル・ジャイアンツ」の映像が、異常に発展したと言えばお分かりか。
・新しい作風をイメージさせるに充分なステージ。シリアスに演じられるかと思ったらそれがコメディであったり、逆もまた然りであったり、(いい意味で、というか、新しい意味で)平板に感じさせるストーリーの進行。ストーリーは主に、革命側では、市民運動から立ち上がった革命戦士としてのゼリグ、管理者側のリュカを柱とする。会社側の設定では、雑多な出来事の中に浮かび上がる非常にダークなイメージを喚起させるもので、いわゆる「会社」の具象セットが現れ、コメディと日常の中間のような芝居が進行する。会社側では、ストーリーの終着地点が特にないため、革命側と大幅に絡み合うこともそんなにない。したがって、使い古された「シリアス・コメディ」という名前でも「ナンセンス・コメディ」でもなく、そのどちらの要素をも受け持った、極めて斬新なコメディの作風を匂わせる。
・革命側のロラン夫人(犬山イヌコ)は、市役所の職員と偽って客席から登場する。客席をフルに使うというのも、プロセニアムを重視するケラとしては珍しいが、何よりも(別な)テーマと直結するのは、彼女が笑いの講釈を垂れ、そしてそれを自ら「客席が沸く形で」実現させるところ。昨今のお笑いブーム再来へのテーゼともアンチテーゼとも取れる、巧妙な仕掛けが施された「笑い」についてのケラの価値観が現れた台詞が続いた。
・前回の「カメレオンズ・リップ」では、大雨を降らせるという、コクーンならではの演出であったが、今回は大量の石が降ってくる。それと前後してセットが大々的に壊れたり倒れたり、火花を吹いたりという派手派手しい演出であった。
・会社側のストーリーには「自殺」「鬱」というのが隠れたテーマとしてあるが、ここで主に笑いを受け持っているのは松尾スズキの黛役。ほぼ同時期に演劇の世界に足を踏み入れ、なおかつ「同世代」として括られることの多いこの二人の、芝居での顔合わせは、実は初めてのことである(企画盤の「ヤマアラシとその他の変種」などの、非常に古いパターンでは顔合わせはなくはなかった)。
・2つのストーリーは決して有機的には整合しない。しかし破綻もしない。それは「別々の世界」としてそれぞれが続いているからであって、整合したシーンは「たまたま2つのストーリーの場面がよく似た物になった」というイメージ。セットが大きく壊れても芝居は続き、それは会社の中でも当然同じになるが、それを利用してストーリーが進むということはなく、むしろ「黛の精神破綻・うつ病の発病」という形で現れる。こういった精神論的な演出も、ケラは本来嫌っていたであろう偏向。
・タイトルの「労働者」とは、一体誰が労働者なのか、といった質問を喚起させる。その辺りも心理描写とケラ特有の細かな演出に頼るところが大きく、「M」が「闇の管理者」であることが分かっても、それは決して「革命とは何か?」「労働者とは何か?」といった本質には触れない。逆に言うと、そういった「本質」という深層を匂わせる辺りが、作風が成熟したことを意味する。
・主役の役名が「ゼリグ」になったのは、「4 A.M.」以来。それ以外にもちょこちょこと顔を出していた名前ではあった。
・05年の1年間の「バラバラな作品」が、ここに一挙に集まったようで、演出と共に作品としても様々な角度から観ることができる。その辺りも、ファンにとってはたまらない(冒頭の言葉で言うと、「9000円払っても後悔しない」)。ただ、作風が未完成であることは否めず、むしろ将来的にケラが作りたい作品の方向性を指し示した貴重なステージ。この作風について、ケラはパンフレットで以下のように語っている。

「僕がかかっている病気、それは、物語のあらゆる要素を平均化せずにはいられない、という特殊なものです。事態が進むことも進まないことも、事件が起こることも起こらないことも、全部を平均的にちりばめたい。面白いエピソードを書いたら、それと同じくらい退屈な時間も描きたい」
「完全に自分の生理から生まれるこの欲求は、もしかしたら中途半端な印象をのこすかもしれないという危険をはらんでいます。すべてのお客さんに親切ではないこと、誰もが『なるほど、分かった』と思える舞台にはならないことも自覚しています」

シアターコクーン

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