ナイロン100℃に関するマメチシキ

このマメチシキもおおかた自分のためのものなので、あてにしないでね。

Q1.ケラリーノ・サンドロヴィッチは日本人か
A1.生粋の日本人。表記としては「ケラリーノ・サンドロヴィッチ」「ケラ」「Keralino Sandorovich」「KERA」等が正しい。このページでは「ケラ」で統一しています。「Keralino Sandorovich(ドイツ人)」や「Keralino Sandorovich(著)ケラリーノ・サンドロヴィッチ(邦訳)」などのあり得ないものはこれから無視しましょう。
A1'.表記は上のもので間違いないのですが(シリーウォーク及びケラさんに確認済み)、ごく稀にパンフレットやビデオなどの「正式刊行物」とされるものの中で、「ケラリーノ・サンドロビッチ」(シリーウォークプロデュース「病気」パンフレットなど)や「Keralino Sandrovich」(「テクノ・ベイビー」ビデオ付属パンフレットなど)の誤った表記になっている場合がある。これは、校正ミスあるいは誤植。こういった表記に出くわした際には、「ケラさんは多忙なのねん」「制作の人もいつも大変ねん」と笑って許してあげましょう。ただし許していいのはケラさんのゲラチェックが明らかに入っているものだけ(連載や書籍など)。紹介されている雑誌や新聞などの媒体が誤表記の場合は許してはいけません。

Q2.「ケラリーノ・サンドロヴィッチ」の名前の由来
A2.本名は小林一三(こばやし・かずみ)。阪急電鉄創設者やタカラヅカ・東宝創設者も同名だが、かの名前は「いちぞう」と読む。「ケラ」と名乗ったのは「虫けら」に由来し、劇団健康創設時に現在の名前を名乗る。要は悪のり。本人はこの質問に答えたことが一番多いらしい。

Q3.他の人の名前の由来
A3.現在他に芸名をつけているのは犬山イヌコ、みのすけ、今江冬子、長田奈麻、沢田ゆき子、01年オーディション合格者の新人。犬山イヌコは本名戸塚千絵。心残御密(こころのこり・おみつ)と名乗っていたのが、ナゴム時代に犬山犬子に改名。ただ単に犬が好きだったからで、町田町蔵<現・町田康>に似せてつけられた(85年に一瞬だけ「いぬ子」と名乗ったこともある)。03年に姓名判断からイヌコに改名。みのすけの本名は比留間彰(ひるま・あきら)。「みのすけ」は高校の時にケラにつけられたあだ名で、筋少ドラマー時代より名乗る。今江冬子、長田奈麻は結婚したため名字が変わったが、元の名で通している。沢田ゆき子は本名澤田由紀子。04年に改名。改名理由不明。01年オーディション合格者の新人は、まとめて芸名をつけられている。例えば廻飛雄は本名伊藤弘雄、皆戸麻衣は本名渡辺麻衣子、柚木幹斗は本名柚木幹雄など、つけ方に結構ムラがある。このページの中では、現在のことを語る文脈では現在の名前、過去出演作品などのことを語る文脈ではその当時の名前に合わせている(例:「ハルディン・ホテル」の犬山イヌコの役は、「フローズン・ビーチ」の犬山犬子とは随分違った印象を犬山イヌコファンに抱かせる)。

Q4.「ナイロン100℃」の名前の由来
A4.これも結構ケラさんが繰り返し答えているものなのではなかろうか。渋谷にかつてあった「ナイロン100%」という、ニューウェーブキッズが集う喫茶店の名前をもじったもの。このままだと洋服屋と間違われやしないかと最後だけ変えられた。候補には「アイロン100%」というのもあったそうだ。読み方は「ないろんひゃくどしー」。どっちにしろ、微妙な名前。ナイロン繊維を100℃にまで上げると、発火点までは行かないものの結構危険。

Q5.ナイロン100℃の結成日
A5.正確には発表されていないが、1st SESSION「予定外」の初演日である93年8月13日をナイロンのスタート日とするのが妥当な解釈。もちろんこれより前に名前が決まっていたはずだし、劇団健康解散時にはこの名称が決まっていたとする説もあるが、今や真相は闇の中。

Q6.ナイロン100℃の認知度
A6.一度浸かってしまうと正確には把握できなくなるのが、この「世間的な認知度」。演劇界では「小劇場の代表的劇団を十挙げよと十人に問えば、二人位はナイロン100℃と書いてくれる」(「ナイス・エイジ」あとがき)ぐらいだったのが、「トップランナー」(「ハルディン・ホテル」パンフレット)となった。ただ演劇自体が「知る人ぞ知る」メディアであるため、実際には「東京でその名前を出すと20人に1人ぐらいはその名前を知っている」程度だと思われる。その証拠に、04年5月にクイズ番組「アタック25」でこの名前を答えさせる問題が出ている(正解者アリ)。

Q7.ケラリーノ・サンドロヴィッチが影響を受けたもの
A7.ケラ本人が演劇的に影響を受けたものは、モンティ・パイソンやその流れを汲んだラジカル・ガジベリビンバ・システム、またマルクス・ブラザーズなど。ただ、ラジカルのようなことがやりたくて、やってみたら下品なワハハ本舗になったとは本人の談。80年代のワハハは既に相当下品だったはずだが、それより下品ってすごいよね。芝居の中身ではなく、フォームとしては大人計画にもかなり影響を受けている。

Q8.ナイロン100℃、シリーウォーク、ダックスープの関係
A8.現在、シリーウォークは公演制作会社として機能。主となる公演はもちろんナイロン100℃であるが、別個にプロデュースをする場合も多い。また、ケラが参加していたユニット、ロングバケーションのライブなども企画。ナイロン100℃自体はあくまでも「演劇ユニット」の名前。ただ、このユニット形態は98年頃に完全に劇団化し、マネージメントを全てシリーウォークが行うという形が制作環境を悪化させた。このため、シリーウォークからマネージメント組織のみをダックスープに分離。したがって、ナイロンに所属していながらダックスープの俳優ではないという人も多い(逆に、ダックスープ所属俳優でありながらナイロンには出演しない俳優も多い)。名称のシリーウォークはモンティ・パイソン、ダックスープはマルクス兄弟に由来する。

Q9.シリーウォーク危機
A9.観てる方はどーでもいいことだが、「シリーウォーク危機」と呼ばれたものが、上記の制作環境の悪化。99年の「テイク・ザ・マネー・アンド・ラン」では、制作者が冗談でなく死の危機に瀕する所まで行ってしまい、続く「テクノ・ベイビー」の公演が打てなくなる直前まで行ってしまったことを指す。これと同時にケラの作品は単純なナンセンスからシリアスへと転向してゆく。この危機の後、制作は花澤理恵に交代。この状態は01年に入るまで続いた。ほぼ同時期に、キャラメルボックスを抱えるネビュラプロジェクトも危機に瀕したという経歴があるが、こちらは単に金がなかっただけ。

Q10.ケラ作品におけるエロ
A10.90年代の小劇場演劇は、プロデュース公演や「静かな演劇」の台頭と共に、大人計画やハイレグジーザスのブレイクにより、エロが表に出た時代でもあった。ナイロンでも「インスタント・ポルノグラフィ」などエロを前面に押し出した作品もあるにはあるが、いわゆる放送コードに引っかかるようなエロはまずない。あってもキスまでだが、逆にキスシーンは本当に多い。最近では「ハルディン・ホテル」(一幕終わり)や「カメレオンズ・リップ」(ラスト)、「消失」(中盤)など。またレズビアン・キッスも「フローズン・ビーチ」(一場中盤)や「すべての犬は天国へ行く」(二幕中盤)など豊富(フロビは拒まれているが)。男同士のキスは過去になし。全裸になったのは「4 A.M.」と「ハルディン・ホテル」のみ(ただし、みのすけはこれ以外もカーテンコールで勝手に脱ぐ)。女優も見せても下着か水着まで(「ザ・ガンビーズ・ショウ」参照)。このイメージを逆手に取った公演が「男性の好きなスポーツ」で、本来語られなかったナイロンにおけるエロティックな側面を全面的に押し出した。

Q11.ケラ作品における障害
A11.これもよく、大人計画との比較で語られる文脈だが、ケラ作品には滅多に障害者は出ない。それは松尾スズキと違い、立場を明確にできるだけの足場がケラにないからだとも言えるが、笑いを含むの作品の中で障害を前面に出せるほど、日本は成熟していないからだとも言える。盲人が出たのが「フローズン・ビーチ」の咲恵(今江冬子)、いわゆるせむしが出たのが「フランケンシュタイン」「東京のSF」のアイゴール(犬山犬子)、「テクノ・ベイビー」のガジモド(吉増裕士)。後者は多分衣装使い回し。障害かどうか分からないが、片腕がなかったのが「東京のSF」の万城目百朗(廣川三憲)。せいぜいこの程度。むしろ頻出するのは心の障害者で、健康時代の犬山犬子が全面的にその役割を背負っていたように、ほとんど例外なく、作品に「基地外」という単語が出てくる。ケラ作品がそのソフトなタッチとは裏腹に、地上波に乗ることが皆無なのは、この言葉のせい。

Q12.シリアス・コメディー
A12.ケラ作品を説明する際に当たり前のように使われるこの単語だが、実際はケラ以外に日本で取り組んでいる人はあまりいないと思われる。一般的な喜劇が、ブロードウェイものや三谷幸喜に代表されるシチュエーションコメディー、過去ケラが得意としたナンセンスコメディーに分類されることに対し、普通ならば悲劇として上演されるべき話題をコメディーとして扱ってしまう作風のことを、ケラはこう呼ぶ。悲劇が派生的に笑いを呼ぶのではなく、確信犯的に笑いを作るシステム。「4 A.M.」でケラは既にこの作風を完成させており(当時は戸惑った客も大勢いただろうが)、今やケラ作品においては当たり前のレパートリーとなった。それでも「コメディー」とする辺りに、逆に笑いへのこだわりが見える。登場人物が特異に精神的な病理を抱えるのではなく、劇世界そのものが病理を抱えるようになったという方向転換とも取れる。過去、ナイロン作品で意識的に笑いを作らなかったのはわずかに「偶然の悪夢」のみ。

Q13.役名・名称
A13.ケラ作品において、たびたび出てくる名前がある。「万城目」(まんじょうめ)がその典型で、使用回数は数知れないが、近作では「ナイス・エイジ」(兄弟)や「東京のSF」(親子)、「ドント・トラスト・オーバー・30」(家族)などで出てくる。現実にはあり得ない名前を設定することで、ある程度の距離感が出ることも狙いの一つだろう。他には廻(めぐり)や五集院(ごじゅういん)など。廻という名前は廻飛雄の芸名にもなっている。地名ではフリドニアやトゥーマパルーマなどという名がよく出てくるが、これらも「地図にない街」といった意味合いが強い。フリドニアの名は、マルクス・ブラザーズの映画に出てくる「フリドニア共和国」に由来する(訳によっては「フリードニア」となることもある)。フリドニアの一番大きな街がトゥーマパルーマであったり、トゥーマパルーマの南方にフリドニアが位置していたりするが、これらはまちまち。ナンセンス系ではハムハムなどといった地名も。架空の通貨として頻出するのがゲンズブール。これはセルジュ・ゲーンズブール(フレンチ・ポップス歌手)に由来すると明言されている。これだけ洋風な名前を揃えていながら、登場人物の名前が日本語バリバリであったりするところは、思い出し笑いの領域(例えば「フリドニア」において、フリドニアの町長の名は中山等)。これで笑いを取ることは皆無。

Q14.ナイロンのあの人やあの人には恋人いるの?
A14.どうでもいいだろそんなこと。君はアベギャルか?
A14'.とりあえず、ケラさんは結婚していません。

Q15.劇団健康の公演
A15.ナイロンの前身である劇団健康は、92年の解散までに本公演14作品、プロデュース公演10作品を上演。上演記録は以下の通り(媒体が信憑性に欠けるため、間違っている点がありましたらご指摘下さい)。カウントは第1回・第2回…のカウントで、プロデュース公演の名称はまちまち。
この公演記録が確かならば、劇団健康は85年8月27日旗揚げで、92年8月23日解散となる。
(「お茶と同情」は健康の公演ではないものの、健康解散後ナイロン100℃旗揚げまでに行われた、ほぼフルメンバーの公演であるためにここに加えました)

第1回公演「ホワイトソング〜意味盗り合戦〜」1985/8/27~28 アートシアター新宿
第2回公演「逆回転アワー〜日本一アブナイお芝居〜」1986/3/21~23 新宿アシベホール
第3回公演「カイカイデー」1986/12/18~20 草月ホール
第4回公演「ヒトとアブラ〜ソシアルマネー〜」1987/6/23~29 新宿タイニイ・アリス
第5回公演「ホワイトソング〜意味盗り合戦'88〜」1988/4/29~5/5 池袋シアターグリーン
第6回公演「カラフルメリィでオハヨ〜いつもの軽い致命傷の朝〜」1988/8/24~30 下北沢ザ・スズナリ
第7回公演「後ろ姿の素敵な僕たち〜ナニカモ国のコレシカ探し〜」1989/1/18~29 新宿シアタートップス
第8回公演「スマナイ。」1989/7/19~31 新宿シアタートップス、8/4~6 扇町ミュージアムスクエア、8/9~10 名古屋白川公園特設テント
第9回公演「牛の人」1990/3/14~25 下北沢ザ・スズナリ
第10回公演「ボーイフレンド」1990/8/24~9/7 新宿シアタートップス
第11回公演「愛と死〜LOVE&DEATH〜」1991/2/15~17 新宿スペースゼロ(他横浜、仙台、札幌、名古屋、大阪、福岡、浜松公演)
第12回公演「カラフルメリィでオハヨ」1991/7/17~22 下北沢本多劇場
第13回公演「テクノカツゲキ・ウチハソバヤジャナイ」1992/4/8~19 池袋東京芸術劇場小ホール2
第14回公演「スマナイ。PARTY MIX」1992/8/7~23 下北沢本多劇場

第1回番外実験公演「問題あり」1988/11/3 早稲田大学、11/26~27 渋谷ラ・ママ
第1回劇団健康プロデュース公演「季節はずれのへっぴょもそ」1989/3/18~19 渋谷ラ・ママ
第2回番外実験公演「プチ天変地異」1989/11/17~19 渋谷ラ・ママ
第2回劇団健康プロデュース公演「BARABARA2」1990/1/14~15 下北沢駅前劇場
健康プロデュース・まつおあきら「輪島人」1990/5/6~7 新宿ビプランシアター
第3回劇団健康プロデュース公演「サモアの思春期」1990/7/7~8 下北沢駅前劇場
(「人の世界」をレイト・ショーとして上演。通常この公演はカウントされない)
第4回劇団健康プロデュース公演「アルタード・ステーツ」1990/10/16~20 新宿ビプランシアター
健康プロデュース・まつおあきら「百」1990/11/3~4 新宿ビプランシアター
健康プロデュース「みやけとデメタン」1991/5/4~6 新宿シアターDEN
劇団健康スペシャル・プロデュース公演「SUNDAY AFTERNOON」1991/12/14~25 渋谷シードホール
シリーウォークプロデュース「お茶と同情」1993/2/19~28 下北沢本多劇場

Q16.人気作品・主要作品
A16.ナイロンは現在も活動継続中であるため、何をもって人気作品とするかは難しい。それを承知で挙げるなら、ケラ作品で最も再演が望まれているものが「愛と死」(劇団健康第11回公演)。これはそもそも続編が作られることが明言されていたためであろう。また「カラフルメリィでオハヨ」も人気のある作品。既に3回上演されている。これはケラ自身のターニングポイントとなった作品でもある。ケラなりのナンセンスが確立されたとされるのが「後ろ姿の素敵な僕たち」(劇団健康第7回公演)。戯曲化の予定があったがお蔵入り。ナイロン作品では「フランケンシュタイン」や「ナイス・エイジ」などが人気。前者はかなり大がかりであったのに映像化されていないから、後者は単純に分かりやすいから、であろう。ケラ自身としては、これらに加え「フリドニア」シリーズ、「ビフテキと暴走」、「すべての犬は天国へ行く」などがお気に入りのようだ。

Q17.ケラの音楽活動
A17.ケラはそもそも、音楽活動のサブとして芝居を始めた。80年代のインディーズ御三家のバンドの1つである、有頂天のリードボーカルとして当初は活動(他の2つはラフィン・ノーズとウィラード)。有頂天は82年の4月に結成され、初LP「土俵王子」を83年にリリース。メジャーデビューは86年の「ピース」。有頂天の活動は91年までで、アルバム9作を残す。「ホワイトソング」や「カイカイデー」、「カラフルメリィ」などのタイトルは全て有頂天に由来する。実際は曲によって違ったりもするが、ニューウェーブバンドの象徴であった。現在オフィシャルに入手可能なものは「ピース」のみ(Q盤)。同時並行で83年から89年までは、インディーズレーベル「ナゴムカンパニー」を主宰。ナゴムギャルと呼ばれる女の子が出てくるまでに、社会現象化。この時期、ケラはロックボーカリストと劇団主宰、レーベルプロデューサーと、フロントマンを3つも兼務していたことになり、常に尋常ではない精神状態に追いやられていた。それでもやり足りなかったという記録が残っており、そういうことを知ると現在の異常な公演の数にも合点が行く。この辺りの詳しいことを知りたい方は「ナゴムの話」(著・平田順子)がおすすめです。91年からはロングバケーションとして活動。ナイロンの芝居に「音楽・ロングバケーション」と出てくるのはこれ。企画ものやサントラも含めると、5年間で17作もアルバムを制作している(実質的にケラが歌っているものは少なかったりもする)。95年に活動停止。「01年に再結成する」と言ったものの、結果的に再結成はなかった(前述のシリーウォーク危機のため)。95年からはザ・シンセサイザーズとして活動。この頃からケラは活動を演劇に特化したため、活動経歴は前2バンドと比べて激しく少ない。制作されたアルバムも1作のみ。このアルバムはナイロン通販で購入可能。活動は現在も断続的に続いており、04年にもライブを行い、05年にはミニアルバムの発売も予定されている。これ以外にも空手バカボンやJトンプソン商会など、参加したユニットは数多い。プロデュース作品はナゴム時代だけで70作以上あり、とても説明しきれないので、いつか作るであろうリンク集をお待ち下さい。
ケラの音楽活動の中での必須アイテムは、有頂天のメジャー2ndアルバム「アイスル」。ケラ自身も「ニューウェーブ史上に残る名盤」と自画自賛。確かに何はなくともこれは持っておいた方がいい。

Q18.ケラ・ナイロンの受賞歴
A18.ケラは98年の「フローズン・ビーチ」の戯曲で第43回岸田國士戯曲賞を受賞している。ここから堰を切ったように、00年の「ナイス・エイジ」で東京都千年文化芸術最優秀作品賞、01年の活動で第1回朝日舞台芸術賞(対象となった公演は、順にオリガト・プラスティコvol.1「カフカズ・ディック」、ナイロン100℃「すべての犬は天国へ行く」、青山円形劇場プロデュース公演「室温~夜の音楽~」、KERA・MAP#001「暗い冒険」、ナイロン100℃「ノーアート・ノーライフ」の5公演)、第5回鶴屋南北戯曲賞・第9回読売演劇大賞優秀演出家賞を「室温~夜の音楽~」で受賞している。ナイロンの集団自体の受賞歴は前述の千年文化芸術最優秀作品賞のみで、ナイロンのメンバーが過去に何らかの賞を受賞されたことはまだない。これについてケラは「小劇場の俳優が受賞できるような賞が、まだ世の中にはない」(「フローズン・ビーチ」再演パンフレット)と嘆いている。この経歴から考えると、ケラは01年頃から演劇界の旗手であると認識されていることになる。また、映画に関してはケラは受賞歴なし。

Q19.ケラの筆
A19. ケラはいまだに原稿用紙に鉛筆やシャープペンシルで台本を執筆する。ワープロ自体は88年に購入した記録があるが、使いこなせずに放り出したらしい。また違う意味での筆は遅筆で知られており、ナイロンの公演においてはSide SESSION#2「カメラ≠万年筆」の本番2週間前が最も早いスピードであったと言われている。筆の速度についてケラは早い時期から開き直っており、「何度か、自分を暗示にかけて、稽古開始の二ヶ月前に『明日が稽古日だ』と思い込んで机に向かったことがありました。で、無理矢理何枚か書いたのですが、翌朝読み返してみると、決まって、それはそれはもう、呆然とするほどつまらない腑抜けのような台本なのです。僕はすぐさま原稿を丸めてゴミ箱に捨てるのでした」(「室温」あとがき)と書いている。客演を頼む際にも、「台本がなくても受けてくれる人」が一つの基準であるようだ。

Q20.カーテンコール
A20.ナイロンは「ビフテキと暴走」まで、カーテンコールでケラが役者紹介をしていた。全部の公演ではなかったものの、新人の役者を知る大きな手がかりであった。主に紹介で使われた言葉は「greatest actor in Japan」や「greatest entertainer from Tokyo」など。この紹介形態はラジカル・ガジベリビンバ・システムでいとうせいこうがやっていたことの真似。これをしなくなったのは、当時役者が増加傾向にあったため(「ビフテキと暴走」の出演者数はナイロン史上第2位の33人)紹介しきれなくなっていたのと、多忙のためケラがナイロンの公演に欠席することが多くなったからであろう。それでも「初日が開いたら後は知らない」というわけではなく、平均して2/3程度は公演に顔を出しているようだ。出席時はカーテンコールに出演することやコメントをすることもある。カーテンコールでよく使用された曲はムーンライダースの「トンピクレンッ子」(82年発表)。「カラフルメリィでオハヨ'97」までこの曲が使用されている。

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